2008年春、渋谷ユーロスペースにてレイトショーされる
映画『船、山にのぼる」の監督・本田孝義のブログです。

本田孝義

2010/3/4 木曜日

『牛の鈴音』

今年の正月映画として、昨年12月から公開されて随分時間が経ってしまったが、韓国のドキュメンタリー映画『牛の鈴音』をやっと見ることが出来た。まず、大雑把な感想を言うと、僕がもっとも嫌いなタイプの映画だった。内容は老夫婦と老牛の生活、というもの。別にこういう内容が嫌いなわけでは全然ない。嫌だったのは映画の演出。まず、音が僕には耐えられなかった。原題は知らないが、映画のタイトルにある、老牛が首につけた鈴の音がひっきりなしに映画の中で鳴っている。僕が見た限りでは、現場で録音された鈴音はほとんど使っていなくて、編集後の仕上げの段階でかなり鈴音を足している。ひどいシーンでは、どう見ても鈴が揺れていないシーンにまで鈴音は鳴る。また、遠近法もかなりいい加減で、遠くに牛が映っていようが、近くに映っていようが鈴音の鳴り方・響かせかたが一定で耳にうるさい。リアリズムの鈴音ではなく、一種の心象表現として鈴音を使っているのも理解できるのだが、こうした使い方は映画の中で、あるポイント、印象づけるポイントで使ってこそ意味があるのであって、ただ鳴っていればいい、というものではない。他にも、鳥や蛙の鳴き声もかなり足されている。僕は、音を足すこと自体は別にかまわないと思っている。自然であるべき、とも思わない。事実、『船、山にのぼる』だって、かなり音を足しているし、カットまるごと音を変えているカットさえある。要は、どういう効果を及ぼしているか、ということなのだ。僕は『牛の鈴音』はきわめて不自然で過剰、と思ったのだ。このことは、撮影・編集にも言える。全編、劇映画のようなカット割りが続出する。あまり映画に詳しくない方にも分かりやすく書くと、劇映画では人の会話を全身・上半身・顔のアップと分けて撮影し、編集でつなぐことでいかにも会話しているように見せている。場合によっては、場所を説明するためのロングショットが入ることもある。ドキュメンタリー映画の場合、こういう撮影はかなり難しい。ただし、複数台カメラを使えばもちろん出来る。(他にも方法はあるが。)いずれにせよ、劇映画のようなカット割りを意図的に導入しなければ出来ないことだ。この映画の場合、魅力的なおじいさんを撮るときも、しばしば効率的に引きとアップの映像がつながれる。また、老夫婦の会話にしばしば牛のアップが挟まれる。(劇映画的に言えば、牛がいかにも二人の会話を聞いているように見える。)僕は、音と同じで、こういう演出が全て悪い、とも思わない。何が嫌だったかと言えば、この映画が描く、素朴でしみじみとした(はずの)世界と演出の過剰さが不釣り合いだと思ったのだ。もっとも、人によってはしたたかな演出、という人もいるだろうけど。(もっと言えば、気にならない人の方が多いのだろうけど。)

・・・ということとは別に、僕は映画を見ながら、牛を飼っていた僕の亡くなったおじいさんのことを思い出していた。映画のおじいさんと同じように、朝早くから草を小さく切る作業をしてたっけ。牛を売った時、僕も牛が泣くのを見たっけ。おじいさん、おばあさんもよく喧嘩してたっけ(けど仲がよかった。)。韓国でヒットしたのは、こうした郷愁を誘ったからなのだろか。日本ではどうか、よくわからない。

未分類 — text by 本田孝義 @ 22:02:51