2008年春、渋谷ユーロスペースにてレイトショーされる
映画『船、山にのぼる」の監督・本田孝義のブログです。

本田孝義

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2011/11/30 水曜日

『大津波のあとに』『槌音』

今日は『大津波のあとに』(監督:森元修一)と『槌音』(監督:大久保愉伊)という2本のドキュメンタリー映画を見た。(後者は短編。)先週、見に行ったのだが満員で入れず。上映が今週まで延びたので見ることが出来た。2本とも3・11の東日本大震災後、比較的早い時期に被災地で撮られた作品。まずは前者の感想。僕は映画を見ながら、とても複雑な気持ちになった。それは映画のせいではなく、自分の心持の問題。まず、映画は延々と続くがれきの山を移動撮影で映し出す。しつこいほど映し出す。この感覚はテレビではなく、まさに映画のリズムだ。仙台、東松島、石巻と移動しながら、被災した人々の姿も映し出していく。とても誠実な映画だった。一方、自分ではどこか物足りなさも感じていたのだが、では、その自分は何を求めてこういうドキュメンタリー映画を見ているのか、はたと考え込んでしまった。もちろん、映画が成立するいろんな要素を勘案して映画の良し、悪しを言うことは出来る。けれども、被災地を撮影したドキュメンタリー映画を見る時に、自分の中にどこか妙な「期待」があることに気付いたのだ。それはもしかして、痛切な悲劇なのか、それでも生きていくたくましさなのか、安っぽいドラマを見たいわけではないけれど、何かを知りたい欲望があるのだった。だけど、同時にそんな期待を持つことはとんだお門違いだ、ということも分かっている。では一体、被災地を描いたドキュメンタリー映画に僕は何を見たいのか、とんと分からなくなってしまった。とても多くのドキュメンタリー映画の監督が被災地に入り、映画が製作されている。多分、僕はそれらの映画を見るだろう。そして見るたびに同じような煩悶を持つのかもしれない。2本目の短編『槌音』は、監督の実家は大槌町にあり、被災した。かつて大槌町で撮っていた映像と3・11後の映像をコラージュして描いた作品。僕は、正直言ってかつての映像と今の映像の編集がもっと効果的に出来たのでは、という気がしたのだが、タイトルに「音」とあるように、昔の「音」から現在の映像につながっていく構成はよかった。ずたずたになった実家の映像を見ながら、僕だったらどうしただろう、どう思っただろう、ということを考えていた。はたして僕は自分の故郷で映像を撮れるだろうか・・・・。

未分類 — text by 本田孝義 @ 0:40:20

コメント (1) »

  1. そうですね。大津波、にかんしていうとあの直後時期で撮ってて
    色々手(演出、構成)を加えてしまうと著しく意味を損なってしまうのでは
    無いでしょうか?
    意識的ではないけれど、結果その後のメディア露出の日和見とか
    とんでもな無神経被災者インタビューとかへの無言の批判に
    もなっているかと。
    まあ、自分自身を振り返るとあの時期震災ちょい前から個人的に思いっきり
    被災状態だっので、まったく何も行動に移せなかったので、この作品がこういう状況で
    撮れた事、山形で出会えたことは、尚更貴重な事だと強く思う次第。
    ただ、最近のタイの洪水後の動きの早さ見ると、
    どっかにあった歌詞・・にほんじんってくらいね~(タイのうらやましい楽天性に比べると)と思いますが。でもかつてのtsunamiではまだ行方不明とか、ゴーストタウンのままに
    なった町とか、いろんな傷跡がのこってるんですけど。

    コメント by みゃう゜ — 2012/2/9 木曜日 @ 22:44:28

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