2008年春、渋谷ユーロスペースにてレイトショーされる
映画『船、山にのぼる」の監督・本田孝義のブログです。

本田孝義

« 少しイライラ・・・アート・プロジェクト »

2011/6/28 火曜日

『無常素描』/会議

3・11後、多くのドキュメンタリー映画の監督が被災地に入り撮影をしている。僕が知っているだけでもそれなりの数になるのだから、実際はもっと多くのビデオカメラが入っているはずだ。報道のビデオカメラは言わずもがな。そんな中、震災後3カ月という異例の早さで公開されたドキュメンタリー映画が『無常素描』(大宮浩一監督)だ。英語タイトルにあるように、素描=スケッチとしてスクリーンに映される被災地・被災者の姿。撮影は4月末から5月頭の約1週間ほど。僕はスクリーンを見つめながら、どこか座り心地の悪い違和感を感じていた。その違和感の始まりは、作家・僧侶の玄侑宗久さんの読経が被災地の映像にかぶさってくる、冒頭のシーンからだった。こういう編集にしたいのはとてもよく分かる。だけども、僕の中では生理的に拒絶する自分がいた。僕は前にも書いたけど、被災地では鎮魂こそ必要だと思った人間だ。この読経にも、映像の意味にもそういうニュアンスがあるだろう。だけれども、それをストレートに見せられたことに僕は戸惑った。以後、その違和感は次々と映し出される被災地の様子にも引き継がれてしまった。自分でも不謹慎と思いながら、あまりにも何もかも破壊された光景にカタストロフ的なスペクタクル性を感じてしまう。それは、テレビの報道で散々放映されている悲喜こもごものドラマ性を周到に排し、風景に語らせることを選んだが故に、浮かび上がってくる感情でもあると思う。そして、僕が感じていた座り心地の悪さの正体は何だろうか、と帰宅するまで考えていたのだが、それは多分、「無常」という言葉にあるような気がする。この言葉も玄侑宗久さんが映画の冒頭で語られるのだが、そのこと自体は全くかまわないのだが、僕はやはり「無常」という言葉を使いたくない、と思うのが正直な気持ちだ。それはなぜかと聞かれたらうまく答えられないのだが。と偉そうなことばかり書いたが、僕はヘタレなので被災地では自分はなにも撮れない、と思ってしまった人間です。

夕方、某映画の製作委員会の会議。会議が終わった後の雑談で、被災地の避難所に通っている方から生々しい話を聞いた。

未分類 — text by 本田孝義 @ 22:03:55

コメント (0) »

この記事にはまだコメントがついていません。

コメント RSS トラックバック URL

コメントをどうぞ